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愛する妻への手紙

最初の手紙から読んでください。http://familin2006.hatenadiary.jp/entry/2014/11/25/093359

26通目、緊張について

妻へ

ぼくの本棚に、内田樹の著作がいくつか並んでいることをあなたは知らないでしょう。ニュースはよく見るけれど言説には関心の薄いあなた。逆のぼく。ぼくたちの性格が、違う点のひとつです。

敬愛する内田樹が、愛について鋭いことを言っていました。

ある映画で使われた次の言葉を題材にしての議論です。

Love is not to say sorry.

その映画でこの言葉は、
「愛とは後悔しないこと」
と訳されていたそうです。
そう言われれば、ああそうねと理解し通り過ぎてしまいそうな訳です。

しかし、内田樹はこれを誤訳と指摘しました。

曰く、

愛というのは、あとで「すまない」と言わねばならないような仕儀に立ち入らないように、一瞬たりとも気を緩めないほどに張り詰めた対人関係のことである

愛という言葉を説明するのに、「張り詰めた」という単語を用いるのを、ぼくは初めて見ました。凄まじい鋭さとわかりやすさだと感じます。

内田樹は、先の映画のセリフは、
「愛とはごめんねと言わないこと」
と訳されるべきだと指摘しているのです。この映画での文脈はそうである、と。

この言葉に触れ、ほとんどオートマチックに自己の現在を振り返ったとき、ぼくは「あとで謝る必要のないように一瞬たりとも気を抜かずに張り詰めた」人間関係を、果たして持っているのだろうか?、いや…、と思わずにいられませんでした。

あなたに対しても、子どもに対しても、あるいはあのひとに対しても、ぼくは「ごめんねと謝らないと仕方のないことばかり」してきているように思います。

ぼくが取りうる選択肢は相変わらずにふたつきりです。
今日、今このときまでの謝るべきことを正直に打ち明け、極度の緊張を持たぬままそれを愛だと言ったことを謝罪すること。
または、今このときまで、そしてこれからのぼくの胸の裡の虚偽を、一切あなたに気取られぬよう最大限の緊張をもって過ごすこと。

何度思考を繰り返しても、なかなか答えが出るものでなく、女々しく煩悶をしているのです。

そういえば、あのひとから中学生か高校生のときにもらった手紙のなかに、印象深い一文がありました。

"ごめん!とか、ゴメンなさい!とか、私たちの間において、それはやめよう"

ぼくは当時、そして今までの間、その言葉を文字通りに「気を遣わぬ仲でいよう」と解釈していました。それ以外のわかり方があるなど、思いつかなかった。
しかしいま、内田樹の言説に触れて思います。そのときのそのひとの思いがそうだったかはわからないけれど、この言葉そのものが語ろうとしている真実は、まさに内田樹が指摘したものでした。あのひとは、「適当にお互いを許し合おう」と言ったのではなく、「許しを乞うようなできごとを、互いの間に起こさぬよう互いを最大限思いやり合おう」と伝えようとしていたのです。

今となっては、その真意も空転するばかりです。ぼくはあのひとに謝らないといけない状況を自らつくり出してしまった。そうしておきながら、あなたにも謝らないといけない状況をつくり出した。

いま、ぼくが煩悶し、検討さえしている命題は、実行に移しても誰も得をしない内容のものです。あなたはひとりになり、あのひとはすでに伴侶を持っていて、だからぼくもひとりになるしかない。

そんなみちをなぜぼくが検討しているのかといえば、誰がどのように得かだけを考えて選択をしてきた結果の今であるわけですから、もうこんな考え方はやめないといけないと思ったからです。
誰かにとってよいから、ではなくて、自分自身がどう生きたいのかを問われていると思ったのです。
誰に。
自分に。

一言でいえば、それはただわがままになることかもしれません。きっとそうでしょう。

でも、その生き方をしたくないと、いま強く思うのです。誤解を恐れず言えば、わがままでもいい、と。ほかの誰かを傷つけてもいい、と。

傷つけまいとして結局傷つけている今があるのだから、自分の本当にしたいことをやろう、したくないことをやらないようにしよう、と

思うのです。





ごめんなさい。