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愛する妻への手紙

最初の手紙から読んでください。http://familin2006.hatenadiary.jp/entry/2014/11/25/093359

64通目、言えないあなた、言えないぼく

妻へ


また、長いタームをおいての手紙となりました。

この間にあったのは、結婚記念日と娘の誕生日。
どちらも、派手ではないけれど、優しい素敵な時間になった気がしています。
よかった。

一方ぼくがあなたをSEXに誘った夜、あなたがあまり気乗りしなくまた今後も気乗りすることはかなり少ないだろうという趣旨の発言をしたことに、多少の感慨はあるものです。

翌日にあなたは、傷つけちゃったかな、ごめん。というメールをくれました。
この言葉にぼくは返信をためらいました。

傷ついてはいない。
怒ってもいない。

ただ、冷めてしまったかもしれない。興味をなくしたと言えば、あなたは傷つくでしょう。

きっとあなたは傷つく。
あなたが言葉に発したあなたの状態と同じ気持ちになっただけなのに、傷つかれるとは理不尽だなと思ってしまいます。

ただし、それも予測のなかのこと。
ぼくが言葉を発しない限りは、予測であなたを理不尽と断じるぼくのほうが理不尽ですね。

この期に及んでまだ、人を傷つけることにためらいを持つぼくは、全く成長していないのでしょうか。

あなたが子育てのイライラをためていることも、
それを発散する術を積極的に模索しないのも、
きちんと対話するのを避けるのも、
未解決の難題です、ぼくの中で。

それをあなたに言う機会を、探しているのだろうか。

63通目、このままでいいのかな


金沢を旅する幸せな時間のさなか、ぼくたちの間に発生した小さな、すれ違いのような衝突。

互いに苛立っていることはわかっています。
時間の経過とともに、それをやり過ごせるかもしれないことも。
どちらかというと、ぼくたちは今までそうやって過ごして来たように思います。

今回は珍しく、ぼくがあなたを咎める言葉を発しました。
ぼくの胸の裡は、咎めたい気持ち半分、このままなあなあで終わらせたくないという気持ちが半分でした。
あなたの「もういいじゃん、」という言葉に、だからぼくは少なくない失望を抱きました。

どちらが悪くても、ぼくは、話すことそのものに価値があるのだと考えます。
笑って過ごせるだけでなく、相手への非難も含めたたくさんの苦難を、話し合える関係であることが、夫婦には大切です。

あなたの逃走に、ぼくは失望しました。
あなたがぼくに謝らないのは、きっとぼくにぶつけたい非難があるからであるはずなのに、それをせずにぼくの投じたきっかけをないことにしようとしたことに、失望しました。

ところで、ぼくが珍しくあなたを咎めようとしたのには、ここ最近の新しい出会いが関係しています。

ぼくの新しい出会いは、職場で起こったものです。仕事の性質上、ぼくと彼女は、よく踏み込みあって議論をしてきました。
納得行かないことは、費用対効果を度外視してでも、納得行かないと議論をし合って来ました。

それを続けるなかで、ぼくはあのひととの関係性を思い出しつつありました。

あのひとも、納得しないことには決して同意をしないひとで、ぼくもそれに似て頑固でした。
互いに意見をぶつけ合いながら、互いに強く苛立ちながら、けっきょくどこかでわかり合っていくその過程がすさまじく好きでした。

あのひととのそんなやりとりも、ぼくとあなたが結婚したあたりから失われて行きました。あのひととのコンタクトがそもそも少なくなったからです。

そうしてしばらくの期間を経て、ぼくに新しい出会いが訪れました。
同僚である彼女と互いに踏み込み議論をする行為に、ぼくは人間として成長する瞬間を見出していました。たとえぼくに非があり、ぼくが拙いから起こるコンフリクトであったとしても、そのコンフリクトを経て到達するある地点は、それを経ずに到達したはずの地点よりも、互いにとって優れているとぼくは信じています。
それができるのが嬉しくて、ぼくにとって彼女との出会いは、わざわざ「新しい出会い」と名のつくものになったのだと思います。

だからと言って、それが理由であなたとは相性がわるいのだと断じてしまうことは短絡です。
もう少し深く思いを伝えてみようと思います。
ぼくは、話すことがしたいのだと、伝えてみようと思います。明日の旅行の予定が狂ってでも。

なるべくことの大きくならないように努め、行程がが予定通り進むことが好きなあなたには、時間のかかりそうな議論をこのタイミングで行うなど、理解しがたい蛮行でしょう。
しかし、ぼくにとってはむしろ、「今ここ」が最も大切なときなのです。「今」を再び逸せば、ぼくたちの間にぼくたちの関係性そのものを議論する機会は、しばらく訪れません。

のんびり生きてよいほど、人生は長くないと気付きつつある30代ですので、少しだけ生き急いでみようかと思います。

金沢の某ホテルにて。


62通目、だが断る

あなた

自分はこんなに頑張ってるのに、なんて言うつもりはないのだけど、夫婦が夫婦らしくいられるための努力をぼくはぼくなりにしているつもりでした。

うすうす、あなたの舌がぼくの舌の動きに応えないというのは感じていたことでした。
あなたが、その行為を好きでないと正直に言ったとき、ふたつの思いが去来しました。

ぼくたちは、付き合ってもうすぐで11年になるけど、まだわかりあうことができる。
まだわかっていない部分が互いの裡にあり、少しコミュニケーションの角度を変えるだけで、それが一間に浮き彫りになる。
それを妨げるのは、お互いをわかっているというお互いの誤解なのではないかと。

くしくも、新しくあなたと出会うというコンセプトは、こんなところでも間違っていないと証明されたような感覚です。

一方もう少しだけ正直に話すなら、小さな悲しみがあったことは事実です。
それが、一種の拒否であったことに疑いをはさむことはできません。
10年を経ての新しい拒否に、自分の筋肉の強張りを感じます。体と表情が自由さを失って、あなたの前にぼくは恥ずかしいうろたえをさらけるしかありませんでした。

こういう焦燥のようなものが、たしか恋愛にはつきものだったようにも思います。
ぼくたちの慣れた愛情に、この出来事がわずかに恋らしさを取り戻すのでしょうか。

61通目、新しい出会い2

しかしながら、
とは言え、
同じ人のなかに新しい出会いを発見していくのと、
文字通り新しいひとに出会うのとでは、
困難の程度が違います。

あなたに主張してどうなることでもないのですが、ぼくに新しい出会いがありました。
ぼくはそのひとに魅力を感じ、まるで高校生のように、そのひとの顔を見ることを楽しみにしています。
かと言って、あなたの大切さがぼくのなかで減じられるわけではありません。
このことを、女性のあなたに納得させることはなかなか難しいように感じます。

ぼくがこの出来事を通じて感じたことは、心の動きを意思によって封じることは、できないということです。
自分の責任を、心という他者のせいにすることはいけません。
しかし、心がautomaticに、動いてしまうことは、止められないことだというのも事実です。

こういう心の動きに出会えば出会うほど、ひとつの疑問がわいてきます。

ひとは心を動かし得るのに、なぜ結婚をするのだろう。
結婚とはいったいなんだろう。
結婚によってひとは一体何を誓うのだろう。

ひとりを愛すると誓うことと、ほかのひとを愛さないということが、なぜイコールで結ばれるのだろう。

そんな視点をぼくに与えてくれた新しい出会いに感謝。

念のため、もう一度繰り返します。
新しい出会いが、あなたへの愛情を減じさせることは、たしかにありませんでした。


60通目、新しい出会い

 

~~

愛してると君が言う

口先だけだとしても

たまらなく嬉しくなるから

それだけが僕にとって真実

Mr.Children 「Any」より

~~

 

 

 

妻へ

 

初めてパソコンから手紙を書きます。

「シークレットウインドウ」なるものを使っているので、履歴からこの手紙の存在を知られることはないでしょう。

しかし、「愛する妻への手紙」というタイトルでWEB検索すると、検索結果にはこの手紙がいちばん上位に来るようになりました。書き始めた頃はそうでなかったのに。

何かの手違いであなたがこの文章を目にすることになったら、きっとあなたを危機的な感情にさせるに違いなく、そしてそれはそのまま、ぼくとあなたの関係を危機的な状況に差し迫らせるに違いないはずなのに、ぼくはこのデジタルな手紙を書き続けています。

いったいいつまで、ぼくは覚悟の曖昧な日々を送るのでしょうか。

万が一、ぼくが最後に自死でもしようものなら、この手紙も夏目漱石の作品よろしく、多少は文学的事件として格好がつくかもしれませんが、もちろんぼくはそのような結論は絶対に出しません。ぼくにそんな意志力がないことと、そして、倫理的にそれをしてはいけないと心につよく刻んでいることは、あなたもよく知っているでしょう。

 

さて、昨夜のあなたとのやりとりに、ぼくは久しぶりに心に安寧というか、満足というか、そんな気持ちを胸に抱きました。

そのやりとりとは、きっと世のパートナーズにおかれては、ごく日常的なものなのでしょうが、ぼくには久々に思われたのです。

その感情の根源をたどると、自分が常に新しい出会いを求めているということと切り離せないような気がしてきます。

 

これは持論ですが、男性という生物は、常に新しい女性との出会いを求めています。新しい女性と、初めてのSEXをして、自らの種をできるだけ広く残すというのが本能です。これは女性の持つ本能と、そしていま人間が作り上げた文化や社会制度とは相反するものです。それをどう消化するかは個人の問題であるとして、

 

ぼくはあなたと結婚しているという現状と、できるだけ多くの女性に出会ってみたいという本能を中間地点で消化するために、あなたと新しく出会い続けたいのだと思います。

できるだけ新鮮な気持ちで毎日あなたに接したいと思うし、おじさんとおばさんになっても、初々しいふたりでいたいのだと思います。

 

そうであることは、とりも直さず、あなたを新しく好きになることを繰り返すということです。記憶喪失でもあるかのように、昨日と同じはずのあなたに、新しい好きという感情を喚起させ続けるということです。これは互いにとても難しいことでしょう。ぼくたちに限らず、恋人や夫婦というのはある一定の期間のなかで、ひとつのルーティーンが出来上がっていくものです。予定調和といってもいいかもしれません。それは新しさからは遠ざかろうとする動きです。長く関係を続けるふたりは、どうやって、お互いを新しく好きになり続けたらよいのだろう。

 

きっと、何かひとつの魔法のような公式があるわけではありません。

勉強でも仕事でもそうですが、問題を解決するための「必殺技」的なものは皆無ではないものの、少なくともそういうふれこみのものには慎重に向き合わなくてはなりません。

恋愛や結婚のような相手のあるものならば、なおさらでしょう。

 

しかしながら、基本のきのようなものがあるのも事実だと考えます。

 

あなたにぼくが好きだと言い、あなたがぼくにわたしも好きと返す。

 

こんな何気ない、ほんの10秒くらいの小さなやりとりに、ぼくがとても幸福な何かで胸を満たしていたことを正直に伝えます。

 

あなたを新しく好きになれるようあなたの細部に目を遣り、

あなたを新しく好きにさせられるよう工夫を凝らすこと、

それだけがぼくたちを瑞々しくいさせると思います。

 

ここで手紙が終わるとキレイですね。

しかし、たいていものごとにはA面とB面があります。

あるいは、立体的であります。

矛盾しそうないくつかが、同時にひとつの個体に去来するということが、世の中ではわりと頻繁に起こっているとぼくは認識しています。

たぶん、真実だと思います。

 

 

59通目、手紙が好き

妻へ

新しい気付きがありました。

ぼくは、もしかするとあのひとの手紙が好きだったのではないか。

もちろんそんなことはあなたも承知でしょう。
嫌いで手紙を続けられるわけがありませんから。

ぼくが言いたいのは、あのひとの手紙こそを好きだったのかとしれない、ということで、つまりそれは、あのひとそのものでなく、という意味です。

たしかに、ぼくはあのひとの手に触れたいし、唇を重ねてみたい。SEXをしたいと思う。ただ話しているだけでも楽しいし、顔を見ているだけでも嬉しい。

こう並べるとこれは立派に「そのものを」好き、と言っても過言ではなさそうです。

しかしながら、日常で何か小さな出来事がある度に、あのひとに伝えたいと思ってしまう。
あのひとから近況の知らせは来ないものかと思ってしまう。

もしかしたらぼくは、あのひとからの手紙への郷愁を、恋心と勘違いしている可能性もある…。

そういう解釈を試してみました。
現実へ回帰するために。

でも、解釈はあくまで解釈であって、ぼくは今もあのひとに会いたい。手紙もほしいしあのひとに会いたい。毎日でも会いたい。

そのものでなく手紙が好きだったという論説は、なかなか証明が難しいと思いました。

58通目、わたがしになりたいぼくは言う

妻へ

今日は帰れなくてごめんなさい。
ひょんなことから、ひとり新宿のカラオケで朝まで過ごすこととなりました。
基本的には寝て過ごすのですが、せっかくカラオケに来たなら歌の練習をしたいところで、プレイリスト「カラオケ練習中」の中からいくつかを歌いました。

聴いていて好きな曲でも、あらためて自分の口で歌詞を発することで、新たな発見もあるものです。

back numberのわたがしという曲は、詞の切なさが際立っています。

この胸の痛みをどうやって
君に移したらいいんだろう

この部分に、激しい共感を覚えました。
日本語というのは不思議です。
同じ意味のことでも、言い方が違えば感じ方も変わるものです。

自分が感じる胸の痛みと、おんなじ胸の痛みを、相手にも感じてほしいのに、それは簡単には叶わない。

歌詞はこう続きます。

横にいるだけじゃ
ダメなんだ

横にいるだけではダメなのです。
手に触れないといけないし、頰と頬を近づけないといけないし、好きだと言わなくてはいけないのです。

ぼくはあなたに、正しく手を出せたと思いますが、しかし思えばそのきっかけは、あなたがくれたのでした。

「飲みにいきましょ!」

とくれたメールは、いまだに脳内のフォルダに大切に保管されています。
あのメールがきっかけで、今のぼくとあなたがいます。

するとぼくは、結局、誰に対しても自分からは始められていないということなのでしょうか。

ぼくは誰に対しても、横にいるだけの態度だったのでしょうか。

せめてあなたがくれたきっかけに、今少しでも、恩返しができるといいのですが、胸の痛みを移したいと思う相手が、いまだにあのひとであるぼくに、そんなことを言える資格はないのだとも思います。