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愛する妻への手紙

最初の手紙から読んでください。http://familin2006.hatenadiary.jp/entry/2014/11/25/093359

71通目、来る手紙

妻へ

 

もうすぐぼくの誕生日のようです。

歳を取るのはいやですね。

気持ちは若いまま、考え方は幼稚なまま、身体だけが歳を取っていく。

ほとんど自動的に新しい知識や考え方を吸収できた若い頃と異なり、30を過ぎた人間の成長は、歳を取っていく身体に精神を追いつかせようという強い意図のもとでしか起こらないのかもしれない。そんな気もしてきます。

 

誕生日のことを思い出したのは、あのひとからの連絡がきっかけでした。

 

「誕生日に何か送ったら、奥さん嫌がるかな?」

 

 とても難しい問いだと思いました。

実際、ぼくはぼくとあのひととの関係について、あなたに感想を求めたことはありません。

あなたのほうからぼくに、何か言おうとしたこともありません。

しかしながら、実際のところあなたはおそらくぼくとあのひととの関係を、こころよく思ってはいないでしょう。以前ぼくが、間もなくあのひとから手紙が届くだろうという話をしたときに、思わず「ごめんね」という言葉を添えてしまったことがありました。後ろめたさのこもったその言葉に瞬時に後悔したのを覚えています。そのときのあなたの返事はこうでした。

 

何がごめんね?平気だよ、あなたはわたしのことが大好きだって知っているから。

 

文章にするとかしこまって見えてしまうけれど、あなたはそういう内容の言葉を言ったのでした。ぼくは、それを聞いて、後悔を深めました。あなたは、ふだん自信に満ちあふれたことを言わない。自信のある言葉はけっして使わない。あなたがふだんと違う語法を採用したということには、あまりにも多くの意味が含まれていました。その裏には、ぼくが別の女性と深いつながりを維持することに対するネガティブな感情があることと思います。

 

しかしながらしかしながら、表向きにはぼくとあなたはそのことについて話をせずに、今を迎えています。だから、あのひとの問いは難しいと思いました。嫌がるとは言えない。しかし、こころよく思っていないこともわかる。

ましてそのニュアンスを文面で伝えるためには、相当なテキストボリュームと素敵な言い回しが必要です。

 

結果、ぼくは特に問題ないという旨の返事をしました。

あなたを狭量な女性に仕立てないことにしました。

 

その直後、電撃のようにぼく自身わかってしまったことがあります。

 

あのひととの手紙のやり取りをやめたがっているのは、ほかでもないぼく自身なのだと。

 

あのひととの手紙に、ぼくは懐かしい愛情を抱かざるを得ません。

あなたをしっかりと愛するし、少なくともそういうふるまいをするという決意の裏、あのひとからの手紙を受け取ると、むらむらとぼくは筆を取りたくなり、書き文字に込められたある籠りとともに、互いにしかわからない仕方で感情の疎通をしたいという欲求にかられます。

そしてぼくはそうであることが、そういうやり方で自分のあのひとへの感情を増幅させ続けてしまうことが、

今も怖いのです。

 

70通目、困難な結婚

妻へ

 

内田樹、と言っても通じないものとは思います。

 

マチネの終わりに、夫のちんぽが入らない、に続く結婚について考えさせられる本3冊目は、文字どおりに結婚についての書籍でした。

 

内田樹は教育について語ることも多く文章はわかりやすいため、愛読しています。内田樹自身が言っていますが、「自分が語らねばほかの誰も語らないであろうことを選択的に語る」ということを実践するひとです。

 

内田樹がこの本で語ったのもまさにそんな「選択的に語られた内容」であったと思います。そこから読み取れる主張とは、一言で言えば、「結婚とは幸せになるためにするものではない」ということです。

 

誤解して伝わりそうな言い方ですが、まさにそのようなことが書かれてありました。誤解を解くべく少し言葉を足すと、「結婚とは幸せの頂点を高めるために行なうものでなく、不幸のボトムラインを押し上げるために行なうものだ」ということです。それはつまり安全保障であると、氏は言います。

 

通説に反することでありながら、なかなか納得の行く主張ではないでしょうか。

 

ぼくたちは突然、

仕事を失うかもしれない。

病気になるかもしれない。

心が折れるかもしれない。

そういう「どん底のとき」に、どん底具合をマシなものにしてくれるのが、結婚であると。

 

心ときめく解釈ではないけれど、納得はいきます。結婚という言葉にまとまりつくピンク色のイメージの裏にある、「実際の効能」がそれなのでしょうね。

 

ぼくとあなたの結婚は、そういった意味で、「大成功」ではないでしょうか。

ぼくたちにやってきた人生のインシデントを、ふたりで乗り越えて来た感覚を持っていますが、あなたはどうでしょうか。

 

インシデントのなかには、独力で乗り越えるしかないこともたくさんありますが…。

 

たとえば、別の女性のことを忘れられない、とか。

69通目、夫のちんぽが入らない

妻へ

 

夫婦の絆に、セックスは重要な要素だとぼくは思っています。ぼくがそう思っていると、ぼくのあなたへの欲望の仕方から、あなたも感じていることでしょう。

 

ここ数ヶ月で言うなら、あなたのコンプレックスそのものである、あなたの体のある部分へのコンタクトが、あなたにこれほど官能的な幸福を与えるものだとわかったのはひとつの発見でした。身体は心とつながっているということを、あらためて思うものでもありました。

 

夫婦は新しくお互いを発見するということをできるだけ長く深く続けていくのがよいと思うし、そのためにセックスは重要な要素でありえます。

 

そんな思想のもと、だから「夫のちんぽが入らない」はタイトルから衝撃的でした。

そして、一見出オチ感もあるタイトルをはるかに凌駕する内容。

夫婦の在り方という難題を、何度も何度もつきつけるその筆圧に、ぼくはただ圧倒されるのでした。

 

 夫婦として日常を過ごす描写の合間、ことあるごとに挿入される「ちんぽはまだ入らない」という文句。

夫のちんぽは入らないのに、ほかの男性のちんぽは入ってしまう不思議。

夫婦でのセックスや子づくりは諦める一方、夫婦は信頼関係を増していく。互いの理解を深めていく。

 

そんなふたりの様子に、ぼくは心打たれました。

夫婦というのは、おそらく、定型的なパターンで括れるものなどないのでしょうね。

どのペアをとってみても、そこに固有の在り方をしてしまう。ぼくたちはつい「典型的な幸福」というものに憧れを持ってしまうけれど、少なくとも夫婦という形態においては、モデルとしての幸福な像というのはありえないのだろうと思います。

 

ちんぽが入らなくても互いを信頼し幸福に過ごす夫婦があります。

 

かたや、ちんぽは入るけれど、葛藤を持ちながら、それでもあなたを幸福せしめたいと欲望するぼくという人間があります。

ぼくはぼくの葛藤ごと、あなたと婚姻している。そう聞いたなら、あなたはきっと哀しむのでしょうね。

 

68通目、マチネの終わりに

あなたへ。

 

もう年末のことになってしまいますが、平野啓一郎の本を初めて読みました。

 

マチネの終わりに。

 

本屋の書評から気になっていましたが、友人が勧めてくれて一気に読書欲が湧きました。

大人の恋の葛藤の話です。

 

ぼくは、この物語の主人公のように、才能に満ちた人間ではありません。

(むしろ個人の能力で生き抜くことに今もあこがれる、凡人のなかの凡人です。)

 

しかし、あまりにもぼくの悩みを投影できる物語であり、そのために人目を憚らず物語に没入してしまいました。(こういった物語に対する態度として没入すること自体がすこし恥ずかしいことであり、内心はどうであれ、客観的な立ち位置で読んでいる「風」を装うのが、大人の読み方だろうと思います。)

 

この物語の主人公は、ある女性と自分の運命的なつながりを確信していながら、自身と彼女をつなぐのとは別の運命のいたずらによって、別の女性と結婚してしまいます。その事象自体というよりも、そこに至る主人公の葛藤が物語の軸でした。ぼくはふだん、小説といえば貴志祐介などのミステリばかり読んでいるだけに、物語が先へ進むことへの快感こそが、物語に触れることの動機だと思っていました。もしかするとほとんど初めて、葛藤の過程に自己を同期させるという経験をしたかもしれません。結論はどうでもよく、主人公が経験する葛藤を、追体験というのももどかしいほど同時的に体感していく作業でした。

 

人は、誰かと結ばれても、子を生んでも、心がほんとうに希求する人のことは、忘れられないのだと、ぼくは感じとりました。情けないほどにぼくは、この物語に共感したのです。

 

もし興味が湧くなら読んでみてほしい。

ぼくが没入したこの物語に、だからこそあなたは没入できないかも、しれないけれど。

67通目、覚悟

妻へ

 

あなたとの旅の最中にこれを書いていることを正直に伝えておきます。

あなたへ言いたいことが、たくさん積もっていることを自覚しながら、なかなかその優先順位を浮上させられなかったことが、今という「タイミング」に表れています。

 

4年ぶりの飛騨高山。

そして、4年前と同じ素敵な宿。

旅はまだふたりだけだったころに、感情を戻させますね。たぶん、ぼくのほうだけでなく。

 

世帯年収としてはまずまずでありながら一向に貯金が増えないことを、頻繁な旅のせいにしていたぼくたちですが、今回の飛騨高山旅行をもって頻繁な旅に区切りをつけようという暗黙の総意はもろく崩れたようです。

それほど、非日常の時空はぼくたちを、恋人だった頃にもどす効果があるように思われます。

 

しかし、書こう書こうと思っていたことは、むしろ日常のなか常に思っていたことにほかなりません。旅が、旅が起こす情動が、書くことのきっかけになったことに過ぎません。

 

こうことわるのは、一時の情によってなされた決断だとあなたに誤解させたくないためだろうと思います。

 

うすうす、長いこと、ぼくはあなたを傷つける決断は、自分にはできないだろうと気付いていました。

あの日、ぼくがあのひとを結婚から引き止めるべく空港へ行ったときから、2年が経ちました。

思えばぼくがあなたを唯一傷つけることができたのは、あの夜しかなかったのです。

 

あの夜、文字通り手足が痺れるほどの決死行の熱に身体が引きずられることによってしか、ぼくはあなたを傷つけることなどできなかったのです。

 

そのチャンスのようなものを逃したぼくは、こうやって手紙などと読んで文字を起こしながら、もう一度あのときのような情動がぼくに起こるのを待つしかありませんでした。そしてそれは当然ながら、自然と起こることではありませんでした。

 

今やっと、ぼくの情動は、あなたを傷つける勇気を上回るものでないと受け入れられつつあります。

 

言い換えれば、あなたと生きていく覚悟のようなものが、ようやくできたということです。

 

しかしそれを、ぼくもあなたも、素直に喜ぶべきかはわかりません。

 

ぼくが今持った覚悟が、あなたを一番に愛するという覚悟なのか、

それとも二番目に愛する人を一番に愛しているかのように一生振る舞うことの覚悟なのか、

その似て非なるもののどちらなのかを判断できず、

さながらそのクレバスの始まりにまたがるように立って、

さてどちらに軸足を置こうかと

考えているかのようだからです。

 

何度も言います。

ただし何度も言います。

あなたを愛していることには、少しの偽りもありません。

あなたを幸せにしたいという純粋な思いも、結婚を決めたあのときと同じように、ぼくの中に燃え続けています。

 

元旦の飛騨高山の夜に。

66通目、新しい出会い3

妻へ

新しい出会いは、今も新しい出会いのままです。
いや、実はすこし変化したかもしれません。

当初、ぼくの新しい出会いは、高校生の恋のように、そのひとに会いたい、話したいと思うようなあり方でした。

今は、ぼくの胸から出る糸は彼女にピンと惹かれています。たるむことなく、張り詰めることもなく、適切な距離で適切な力強さで、糸は惹かれています。
つまり一言でいえば、素敵な日常と化しているということです。

もしかしたら、彼女もぼくに近しい親しみを感じているのかもしれません。
彼女に今言い寄っている男が、彼女へ強引な誘い方をしたとき、その男でなくぼくと話していたいという気持ちになったと、彼女は言っていました。
ぼくのような独身の男を見つけたいとも言いました。

全ていつもの笑い話の会話のなかでです。

でも、冗談や笑い話やおどけた表情のなかに、わずかな湿り気を込めたり感じたりすることは、初々しく瑞々しい恋愛感情に起因していると言えそうです。

ぼくが独身なら、彼女を傷つけずにともに過ごすことができるのに、と思っています。

今の自分に思うのことがふたつあります。

新しい恋に胸を躍らせ、彼女を愛する力量が自分に満ちているかのように思う今のぼくは、しかしそれはあなたとの長い年月によって育まれた自信がもとなのです。
あなたとすごした楽しく甘酸っぱい長い時間があって、今のぼくがあります。
そのことは決して忘れられるべきでない真実です。

もうひとつ。
結局、ぼくの心はいつかあなたとあのひとへの恋慕を水面へと浮上させるだろうということです。

彼女とLINEで会話を交わしながら、どこかで、あのひとのことも考えています。
ぼくの人生はどこかで、あのひととともに過ごす自分と、そうでない今とに分岐しました。

同じことが、今の新しい出会いにおいて、起こるわけではないだろうと思います。

65通目、大切なもの

妻へ

あなたが、ぼくに言ったことを、そんなにも気にしていたことを知って、不覚にもかわいいなと思ってしまいました。

恋われるということは、ひとの感情を動かすものですね。

そうしてぼくは、真剣に考えなくてはならないことに思い当たりました。

大切なものはなんなのか、ということです。
大切なものは時間軸にして、その座標上のどこにあるのか。

当然、現在や未来よりも、過去のほうが大切だという結論は、ありえないわけです。
古今東西のどの物語を取ってみても、過去よりも未来が大切だと謳われています。
それは絶対にその通りなのです。

しかし、自分が過去に囚われがちな人間であることを差し引いても、この件におけるぼくの過去への執着は、度が過ぎていると言わざるを得ません。

あなたと子どもと、そこにぼくを加えた家族の未来。
ふつうならば、それに勝る価値を持つものはありません。
にもかかわらず、ぼくは過去の思い出にすがり、過去存在した可能性にすがり、今もなおその可能性がどこかにあるのではないかと夢想するのです。
ともすれば、シュレディンガーの猫でいうところの猫の死がたまたまこの自分に訪れているだけであって、別の未来に分岐したもうひとりの、このぼくが夢想するような生活を営むぼくがいるとするならば、そのたまたまを恨むほかないなどと考えたりもしています。

物理の理論に文句をつけたって、もちろん何も解決はしません。
きっとぼくは解決しないことを理解しながら、今の自分を何かのせいにしたいのです。

さて。
過去と現在と未来。
どこに自分の価値を置くか。
それはきっとひとそれぞれでしょう。
99パーセントのひとが、現在以上のものを重視しているだけであって、ぼくが過去の価値を最大とみなすこともできると思います。

はたして、しかしそうなのであろうか。

そういう方法で思考を始めることで、自己の現状を見つめるのに数度違う角度からそれを行える気がしています。

ふー。
乱筆乱文にて、ごめんなさい。